朝方、「ミャ~、ミャ~」という鳴き声がしていた。どうやら捨て猫のよう。
小学校2年の沙良は、そわそわ気になって仕方がない。
もちろん近所に住んでいる同年代の小学生達もそれは同じ。
沙良がドアを開けると、前の家に住む二人の男の子がすでにちょっかい出していた。
人懐こい猫で、呼ぶと怖がりもしないで足元に擦り寄ってくる。
鼻筋に白い線の入った黒色なので、誰言うとなく「クロ」と名前までついてしまった。
やせっぽちのからだなので、目と耳がことさら大きく見える。
「おなかすいてるみたい、餌あげてもいい?」
子供はいつだって、動物に餌をあげたいものだ。
「だめだめ、餌あげたら住みついちゃうよ、飼えないでしょ」
大人たちは、どこも同じ。
沙良は、近所の猫を飼っているおばさんのところへ行き、事情を話した。
「子猫がいるんです、餌を少しわけてくれませんか?」
おばさんは、ぽんと新品のキャット・フードをくれてしまった!
こうして「クロ」は自分用の餌を手に入れた。
前の家の子は籠を出してきて寝られる場所をつくり、雨があたらないようにした。
「だめだめ、飼えないでしょ」と言いつつ、皆、情がうつっている。
私もついつい手持ちのカメラなど持ち出した。
それまで朝寝坊していた沙良は、誰よりも早く起きるようになった。
やっと明るくなった5時半に寝床から起きだして、いそいで身支度してドアを開ける。
「くろ」も待っていたようにねこじゃらしに飛びついてくる。
学校から帰ってきても、暗くなるまで「クロ、クロ」と追いかけている。
こうして数日。近所の子供達が毎日「クロ、クロ」で過ごすようになっているのを見て、私は一週間のツアーに出発したのだった。
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8日後、帰ってくると「クロ、死んじゃった」と聞かされた。
数日前の朝、学校へ行こうと集まっていた子供たちの目の前で、車に轢かれてしまったのだそうだ。沙良は大泣きして腰が抜けてしまい、友達に支えられて学校へ行ったという。
明日も当然あると思っていた命が、突然絶たれてしまう。
そういうことがあると、頭では理解していても、実際に目の前に突きつけられると呆然としてしまう。考えてしまう。
生きているってどんな事なのだろう?
ほんの数ヶ月しか生きなかっただろう「クロ」にはどんな意味があったのだろう。
「くろ」は、どんな役割があって私や沙良の目の前に現れたのだろうか。
そもそも、我々人間にだって「生きる」ことの意味や役割があるのだろうか?
生きている事に、「生きている」以上の役割や意味を求めるのは、人間だけが持つ不遜な考えなのかもしれない。「神」というものは、その不遜な不安を根底からすくってくれる為に、存在する概念だと思う。
一生懸命健気に生きている事が、「クロ」の存在意義で、「クロ」が生きていた事に、何かの意味を与えてやれるのは、数日でしかなかったが、それをそばで見ていた私たちだけだ。
「『クロ』はね、沙良があんなふうに車に轢かれたりしないように教えてくれたんだよ」。
そんな事は後付けの言葉でしかない。
けれど「クロ」だけじゃないんだ。
どんな人でも、その「生きている」事に意味を与えてやれるのは、一生懸命生きているのを、しっかり見てくれている人たちでしかない。
私のほかに、誰にも写真なんて撮ってもらわなかっただろうなぁ…覚えておくよ「クロ」や「クロ」。