「きょうも、ありがとうございました」と、両手を前にあわせてきちんとおじぎをして去っていくロナルドくん。見送る我々は「日本人でも最近あんなおじぎしないね」と、恐れ入っていた。

 

真面目に仕事をする人だというのは、空港で出会った時、一目で分かった。数日するうちに、それは我々の心に痛いほど沁みてきた。ううむ、我々あんなにきちんと日本語を話そうとしていただろうか?

あんなに誠意をもって仕事をしているだろうか?

 

ロナルド君は今三十三歳。うまれたのは、チチカカ湖に近いフリアカである。

彼が十歳にもならない1980年代のペルーは、観光立国なんてとんでもない、七千パーセントというハイパーインフレでお金は紙くずになり、国家破綻寸前。左翼ゲリラが恐怖政治で地方都市を占領して、国内難民がリマへ流れ込んでいた。 「その頃の事、おぼえてますか?」と訊ねてみると、「あのときは、ほんっとにたいへんでした。お店はどんどんなくなって、毎日たべもののためにずっとぎょうれつでした」と、表情が曇った。小学校ぐらいの子供たちにも、辛い時代の記憶は刻まれている。

 

それは「インフレになれば人々の生活は破たんする」という教科書的な理解とは全く違う。我々がほんとうにペルーを理解できた瞬間だった。

 

ロナルドくんのお父さんは、彼が十二歳の時に亡くなった。母と四人の子供たちはクスコへ出てきてお土産を売り始めた。貧しい流入民の彼らに店はなく、大聖堂前の広場で手造りのリャマや人形や編み物を売った。夏は夜中の二時ぐらいまで、観光客がいるかぎり商売をしていたそうだ。

だから彼は「ぼくもあみものできますよ(^^)指人形つくれます。」という。今日小松が買った小さな指人形は、今でも母方の親戚の子供たちがつくっているのだとおしえてくれた

小松の指には小さすぎて入らないこの指人形を見て、会ってもいない子供たちの事を考えた。

 

今から十数年前、あふれる露店の物売りにクスコ市は対策をうちだした。

中心部から少しはなれたところに、お土産物屋エリアをつくり、一軒一坪ほどの屋根のある店をもたせたのだ。ロナルドくんのお母さんも、そこに入る事ができた。

 

日本に興味を持ったのは、テレビの番組で。1990年ロナルド君が中学校のころにフジモリ大統領が登場し、成果を上げ始めると日本の文化がペルーでクローズアップされていった時期。

気に入った番組を何度も見て日本語を覚えた。学校でまなぶ機会をえて、さらに一生懸命に勉強したのだろう、ついに国費で留学させてもらえることになり、浦和に一年ホームステイした。彼の人生が拓けた瞬間にちがいない。

 

そんな裏話を知った我々は、ロナルドくんを苦労して育てたであろうお母さんのお店に行ってみたくなった。 行って、少しは貢献してあげたくなった。ガイドとして立派に働いているロナルド君を、お母さんに見せてあげたいと思った。 「息子さんは良い仕事をしていますよ」と直接声をかけてあげたい。普通のツアーでは、まじめなロナルドくんがお母さんの店にお客を連れてゆくことなど絶対にない。

 

その日のドライバー、グレゴリオさんは、いつもは観光バスなど止まらない場所に強引にとめて我々を降ろしてくれた。リマへかえる飛行機の時間がせまっていたので「十五分だけ!」、みんなでロナルドくんのお母さんのお店へ走って行った。

 

いかにもインディオという風貌のお母さんは、皺の寄った、でも大きなたくましい手で我々の手を握り、迎えてくれた。

 

一介の観光客にすぎない我々でも、ガイドブック的な理解だけではなく、そこに住む個々の人々と直接ふれあって自分の心で感じたい。それこそがほんとうに旅する理由なのだから。

 

空港でロナルド君との別れ際、「母が、あとでうちに寄ってください、と言っていました」とうちあけてくれた。「あと」なんてもうなくても、そういってくださるのは嬉しい。言葉は通じなくても、たった十五分の訪問であっても、気持は通じている。 

 

ロナウドくんの日本語はまだまだ流暢ではない。リマ担当のセルヒオさんの百戦錬磨の日本語とは比べようもない。

 

それでも、我々はペルーというとき、クスコを思い出す時、ロナウドくんとそのお母さんの事を考えるだろう。それは自分たちだけの旅をしたことの証(あかし)である