十月に百一歳で亡くなられたヨシエさんとは
二十年前、八十歳の時のギリシャ旅にご一緒した。
九十を過ぎてから詠まれたのが表題の句。

誰でも動けなくなる時がやってくる。
動けなくなってはじめて、
自由に動けることの価値を本当に理解できる。

小松は12月3日の手術後すぐ、
三十センチ先の携帯にさえ手を伸ばせない状態だった。
テーブルの上の携帯も、一万キロ離れたギリシャも、
同じように遠かった。
病室のベッドで、これまでのひとつひとつの旅が
あらためてかけがえないものに思えた。

キューバ、ネパール、スリランカ、ペルー、
トラブゾン(トルコ)、ブータン、
思えばこの十数年、
自分も行ったことのなかった場所への旅をたくさん《手造》してきた。

はじめての場所を訪れる時の胸の高鳴りと
ひりひりするような緊張感。
行ったことがないからこそ、
興味が未知への怖れを克服して必死で旅をつくることができた。
あの時が「旅するべき時」だった。

未知のものを楽しむためには、
「心の若さ」が必要になる。
二十年後、今の自分に同じことができるかわからない。

2020年、世界が暗転してしまい、
パリでさえももう二度と訪れる事はないのかもしれない。
そうでなくても、
やがて、自分の足が動かなくなる時は必ずやってくる。
他人から見れば「世界中」を旅したように見えるかもしれないが、
行きたい場所すべてを訪れる人などいない。
足が動かなくなった時には
「行けぬ旅を恋う」に違いない。

旅は「生きている手触り」が最も濃く刻まれている時間だ。
旅した記憶は、しなかった「悔い」ではなく、
「自分はたしかに見たのだ」という満足を
命続くかぎり与えてくれる。

九十歳のヨシエさんは、
青空にむくむく湧き上がる雲の峰をみあげながら、
「ふたたびは行けぬ旅」を満足に思い出しておられたにちがいない。